いま、世界は「コロナ・パンデミック」という不思議な変革期に立ち向かっている。いままでの日常が消えうせ、巷には「未知のウイルス」「恐怖」「危険」という言葉やメッセージが至る所に溢れ出している。しかし、なぜか刻々と迫る死への絶望感が生み出す暗闇も、世紀末的カオスの破壊現象や、心なしかそこに芽生えるアナーキーな好奇心もほとんど感じられない。
この不思議な変革期は、様々なものを失ったが、同時に様々なものも産み出している。そのひとつが、アジアで再生しつつあるビートゼネレーション、「アジアン・ニュー・ビートニクス」たちだ。
ヒッピー文化を生み、ドラッグカルチャーの時代を創出し、ボブディランの歌声に人々が熱狂したビートゼネレーション。1930年代の「ロストゼネレーション=失われた世代」をあっという間に蹴散らし、50年代に彗星のように現れ「俺たちはどう生きるかなのだ」と、熱く歌や詩、アートに陶酔し「路上」の生活に憧れた世代だ。ボブディラン、ジャニスジョプリン、デビットボウイ、彼らは、みんなオン・ザ・ロードに憧れ人生の舵を切ったのだ。
この大人になりかかった「青年たち」の生きざまこそが、いま再び「アジアン・ニュー・ビートニクス」としてアジアで再生しだしている。
「ビバップ散文体」と言われジャズの即興演奏のように書き連ねたケルアックの「路上」は、地上の道からインターネットで繋がるソーシャルメディアの空間を新たな「路上」として生まれ変わり、そこが彼らが生きる場所となった。「俺たちの生き方」を歌や詩、そしてアートでネット社会のデジタル空間を舞台に変えて表現しているのだ。
この新たなアジアに生まれたニューゼネレーションをさらに躍動させる原動力こそがコロナ・パンデミックの新時代に隠されているのだ。
【著者プロフィール】
鈴木ジョージ JOJI SUZUKI
作家、ジャーナリスト。アジア各国を長年にわたり頻繁に取材、アジアの最前線の兆しを追い続けている。「アジア黄金郷の旅」「猛毒大国・中国を行く」他著書多数。サックスプレーヤーとしてジャズライブも開催している。
■コロナによって崩壊させられたイリュージョン〜グローバル社会と家社会〜
コロナ・パンデミック、それは突然私たちの前に現れた。まるで、ある日突然、理由がわからないまま長蛇の列に並ばされ、乗り込んだ船がゆっくりと海底に向かって沈みだし、その船室から見える景色が青い空から暗い海の中へと徐々に変化するように私たちの生活、意識は徐々に変わっていったのだ。けれども、なぜか船内に取り残された我々は、いまも元気に生活している。決して地球のすべての自然現象がついに終末期を迎えたり、巨大な核戦争によって社会構造すべてが崩壊したり消滅したわけではない。
変革期とは何か。それは見慣れた日常風景の何かを失い、朝夕、自然時計のように過ぎていた時間の流れが逆流しだし、言葉に出さずとも同期できていた私たちの一定の価値観のリズムが静かに壊れるだす時だ。そして、それにより失う物語があると同時に今迄にまったくない新しい主人公の、新しい物語が生まれだす瞬間でもある。それは堆積化し固い殻で覆われたイリュージョン(幻想)が解体され、新たな細胞構造での全く異なるイリュージョンが構築されだす変遷期でもある。いまコロナパンデミックでその様々なイリュージョンが泡のごとく消え去りだしているのだ。
「コロナ」という未知の生物ウイルスの登場によって決定的に崩壊させられたイリュージョンとは何だろうか。そのひとつは主体なき主体、客観なき客観から発せられ続けてきたマスメディアなどを含む「情報」だ。そして無数のファイバーグラスや衛星電波でその「情報」が世界で繋がっている、という未熟な幻想「グローバル社会」という概念だ。
21世紀は高度情報化社会に到達し、一部の地域を除いて成熟した民主主義社会がほとんどの国で完成され、そこに統合的な価値観が創出される、というある種の枢軸時代の到来を喧伝し続けていた。それがあっという間に消滅したのだ。その象徴が古代ギリシャやローマ帝国のごとく、近代の歴史的枢軸時代を切り開いてきたと自負する「グローバル大国」、アメリカ合衆国だろう。
まさにこの「コロナ・パンデミック」への緊急医療制度や政治的対応の不備や混乱により、その悲惨な現実を世界に晒してしまったのだ。
しかも、それはWHOやアメリカ大統領トランプの大失態だけではなく中国はじめ世界中の地域や国家、組織が、それぞれその地域の為政者たちの個人的能力、人的資質による曖昧な判断に頼らざるを得ない、という国家と国民が分断された前近代的な政治環境の実態を露わに見せつけ、いまだ右往左往しているのだ。そこには新型コロナウイルスに対抗し得る世界規模の高度情報化ネットワークの共有などはまったく存在しなかったし、未だ存在していない。
ワクチン開発関連情報なども、まるで株価操作のインサイダー情報のごとく根拠のない思惑情報を各国が競いながら発信しているだけだ。
そして、もうひとつ、コロナ・パンデミックによって破壊されつつある幻想が、日本の「家社会」「集団主義」が生み出す独自の文化だろう。「気概(thymos)」と「集団システム」こそが日本経済を牽引し続け、産業技術や生産活動において世界市場で優勢を保っている要因だ、という根強く日本社会を厚い殻で覆ってきた幻想だ。
日本型テクノ・ナショナリズムともいえるこの幻想は技術立国・日本の看板思想とも言われ多くの国民にも支持されてきた。そして欧米社会に対抗しえる経済原動力として信奉されて来たのだ。しかし、80年代、90年代から世界市場での競争力を発揮しだした一部の日本企業はすでにその幻想から脱皮していたにもかかわらず、中小企業、官公庁を含む多くの日本企業はもはやそのような気概やシステムは形骸化し意味を持たない実態を理解しながらも、集団主義から完全脱皮できずその殻の中のシステムを引き継いで生産活動を続けていたのだ。
そしていま、コロナ・パンデミックがその分厚い殻に罅を入れ幻想を破壊しようとしている。「ウイズ・コロナ」としての生産活動様式は大きく変わり、リモート生産や無駄な集団活動の排除、組織力優先から個々の能力の多様な開発や生産性の向上へ向けたシステム改革は日本型テクノ・ナショナリズムという幻想を漸くにして必然的に崩壊させていくのだ。
一例をあげると、企業の中でも保守的傾向が強い某鉄道会社のトップがその幻想の崩壊を認めだした事実だ。現場優先として技術系部門や組織的ヒエラルキーに頼りがちなその鉄道関係の企業もコロナ・パンデミックでリモート会議やリモート営業に積極的にシフトしだした。当初は現場の管理者からも懐疑的な評価が多かったが、想定外にも生産性は低下せず、今までにない経費の効率性や社員個人個人の創造性が現れだした、という。
しかし、リモート業務が社会的に広がると、本業の鉄道収益は当然圧迫される。通勤量が減り収益は下がるのだ。会社の将来予測はコロナ終息後もコロナ以前への売り上げ復帰は不可能で数十パーセント減での下げ止まりでの試算しかないという。しかし、基礎業務の鉄道収益は下がるが、新しい「ウイズ・コロナ」で広がるビジネスもある。通勤量は減るが、リモート社会になると住環境、生活環境が変わってくる。都心に近い通勤圏への不動産価値から郊外型、ゆとりのある住環境への住み替えや通勤を優先しない新たな生活環境を創造するスマートタウンの開発業務が鉄道会社の命題として生まれてくるのだ。その開発デザインを描くのに組織力優先という概念はない。自らのリモート業務への社内改革での経験や保守的な集団主義から自由な発想への転換で個々の社員のアイデアが生まれ、新たなビジネスプランの創造が期待できる、という。
他にもこれから我々の周りで様々な幻想が消滅していくに違いない。これはすでに価値を失った共通概念や旧態然としたシステムの屍の上に脈々と前例主義、慣例主義で無意味にそれを引き継ぎ積み重ねてきた構造を偶然的かつ必然的に破壊する「脱構築」の動きなのだ。
もちろん180度の転換はあり得ない。80年代半ばから再認識されだした日本型集団経営の国際的優越性も部分的に残しながら徐々に新たな労働形態を融合していく日本独自のスタイルが生まれていくだろう。
さらに、いまは主にZOOMなどのソフトを使った基本的なリモート会議や営業からスタートしているが、近い将来新たな高機能ソフトやの登場やそれぞれの企業や業界がさらにクラウドやリモート営業・管理といった新たなネットワークを軸にした独自のシステム・ソフト開発やビジネスフォームを構築していくのは想像に難くない。
「情報」という幻想の崩壊も同様だ。すでに始まっているテレビや新聞などのマスメディアの衰退を一気に推し進め、独立系サイトや個人サイトなど玉石混合だが独自の情報ネットワークがどんどん生まれ発展していくだろう。しかし、これも日本独特の「井戸端会議的情報文化」「エモーショナル優先の情報価値観」を部分的に残しつつも、並行して新たな情報系統や情報価値観が育っていくのだ。これはロラン・バルト風に言えばまさに「前方への逃走」と言えるだろう。
■新しい主人公の新しい物語〜日本型スノビズム=オタク文化の再拡散〜
このような「ニューノーマル」な生活様式の変革によって、世界中で生まれつつある「新しい主人公の新しい物語」がある。
それは「日本型スノビズム」の再拡散だ。コロナ・パンデミックが生み出す社会変革は、改めて「日本型スノビズム」を基にさらにそれを進化させた主人公としたさまざまな物語を世界各地で生み出していくに違いない。それは旧態然とした幻想物語の崩壊と新たな分子構造の新しい幻想物語の創造という変遷期を生み出すのだ。
「スノビズム」とは俗物主義などと訳され、物や形の本質よりも形式的価値を求める人間を蔑視した意味で使われてきた。語源は18世紀後半、イギリスのケンブリッジ大学の学生たちの貴族主義,階級意識から生まれ下層階級や下町の靴屋などの人間を呼ぶ差別的俗語が発祥と言われている。そしてこの俗語から派生したスノビズムはその後、明確な定義が定まらないまま、サッカレーやプルーストが作品の中で「上流階級ぶりたがる俗物」として表現し、定着していった。
このスノビズムを日本独自の精神文化の表象として捉えなおし、「それが世界を席巻するだろう」、と大胆に最初に予測したのがフランスの哲学者、アレクサンドル・コジェーヴだった。
1968年、彼は著作の「ヘーゲル読解入門」の追記で、世界は無意味な本能的消費社会に毒された「アメリカ型動物的浪費社会」と、鎖国時代に栄えた江戸町民文化、すなわち華道、茶道、武道、切腹など爛熟した大衆文化の様式美、形式美を「日本的スノビズム社会」と定義し、この二つの大衆社会文化が、イデオロギーなき歴史の終わり以降世界を席巻する、と大胆に予測したのだ。
これには来るべきイデオロギーなき浪費社会に対する十分な否定的アイロニーが含まれていた。が、日本のポストモダニストたちはこの予想をポジティブに解釈していったのだった。
事実、1970年後半から1980年代、90年代と「日本的スノビズム社会」を表象する日本の「オタク文化」は先進国を中心に世界を席巻していったからだ。
「オタク文化」を代表する日本型ゲーム文化、アニメキャラクター、漫画、そしてそれらから派生する記号文化、ボードリヤールが指摘したシュミラークル(模象)な主人公たちが展開する記号ファッションなどは、「日本型スノビズム文化」そのものだったのだ。
そして彼らはコジェーヴが定義した「日本型スノビズム」をさらに体系化、理論化し発展させていった。その行動様式を「与えられた環境を否定する理由がないにも関わらず、形式化された価値に基づいてそれを否定する行動様式」と位置づけ、「敢えて環境と調和しない。形式的な対立を作り出し対立を楽しみ愛でる事に悦びを感じる」人間たちが新たな大衆文化を創造するとした。
ケンブリッジの学生が貴族主義を基に侮蔑的に使った「スノッブ=靴屋」から派生した俗語のスノビズムが、大衆消費社会、浪費社会に埋没し本能的欲求だけで生きる「アメリカ型動物社会」に対して独特の人間的感性や知性を基盤にした行動様式で体系化し、進化した現代大衆社会をポジティブに指す意味に大きく変容したといえるだろう。
そして80年代、90年代と世界の大衆文化に彗星のごとく登場した「日本型スノビズム」は、2000年前後のアメリカ発のインターネット社会とそれらが生み出す新たなネットワーク文化の到来とともにその中に吸収、消化されて溶け込み、世界に静かに広がっていった。一部の特異なポップカルチャーとしての位置づけを遥かに超えて、「オタク文化」という独特のキッチュな響きもすでに一般化し、もはやその個性的優位性は消滅しつつあるほどの勢いだった。
そして、いま「ウイズ・コロナ」の時代を迎えさらにこの「日本型スノビズム」を基盤とした「オタク文化」がさらに膨張することは疑いのないことだ。 それは「ウイズコロナ」の時代が生み出す不可逆的な新たなベクトルでエントロピーとなった膨大なパワーが、新たな「オタク文化」を一気に増殖させる可能性が大きいからだ。
「ウイズ・コロナ」の時代、人々はまず様々な既存の幻想を破壊しながら個人と組織、個人と世界の関係を根底からさらに変えていくだろう。その中でも特に注目したいのがSNSやYouTubeなどのソーシャルネットワークメディアだ。これはネット社会が生み出したゼロから無限大までの予測不可能な領域を持った、「閉鎖空間」と「解放空間」を併せ持つデジタル大衆社会だ。
衰退化するマス・メディアとは対照的にこれらのネットワーク社会はすでに世界中で拡散し消費マーケティングや様々なマーケティング戦略でも重要な位置を占めるようになっている。
実はこの、既存マスメディアとは情報発信ベクトルが真逆なソーシャルネットワーク社会での人々の行動様式は、「与えられた環境を否定する理由がないにも関わらず、形式化された価値に基づいてそれを否定する行動様式」、「敢えて環境と調和しない。形式的な対立を作り出し対立を楽しみ愛でる事に悦びを感じる」といった「日本型スノビズム」を醸成するには最適な環境空間なのだ。それは、既存の日本型アニメやゲームなどの完成され、商品化された「オタク文化」からさらに進化した「新・オタク文化」の発信基地ともいえるだろう。
他愛もない趣味や日常での差別化、既存情報に左右されない「自分時間」の発信とそれによって対立軸を作る楽しみ、すべての階級、階層がフラットに発信、受信、参加しまた、あえて調和せず排除できる自由を愛でる、すべての人間が「新・オタク文化」を創作できる自由空間でもある。
80年代、90年代の「オタク文化」は発信者も受信者もある程度の専門知識や洗練されたマニア度が重視されながら完成された「商品」を軸にアナログ的に繋がった。しかし、誰でも簡易にできるデータベース化やオープンデータの使いまわし、簡易な映像や音楽編集ソフトの開発などが加わった現代のネットワーク社会でのプリコラージュ文化やシュミラークル文化は、すなわち誰もがその瞬間に「新・オタク文化の主人公」に変身でき得る空間を提供してくれるのだ。
さらにこれが、「ウイズ・コロナ」の時代になり、リモートワークや在宅勤務、複数職の容認、ワークシェアリングが一般化すると職場や団体などの組織と個人の距離感が変わり、個人のネットワーク空間がさらに日常に組み込まれていく。
いままで組織的なコミュニケーションと分離した個人の仮想空間で行われていたSNSやYouTubeなどのソーシャルメディアがより組織・個人・公的・私的とフラットで対等な距離感の中で堂々と行うように変化していくのだ。そこにはいままで個人的な領域を主体としてきたこれらのネットワークが公的組織内での交換体系のひとつとして社会慣習化し、さらに拡散して行く可能性も広がってくるのだ。
この「ウイズ・コロナ」社会で広がる「日本型スノビズム」を継承する「新・オタク文化」にはコジェーヴが指摘した「歴史の終わり以降の消費社会」が生み出す、単純な「動物本能的な消費欲求」と差別化したもう一つの消費欲求を満たす要素が多分に含まれていることは言うまでもない。ネット社会が確立され、よりデジタル化・データベース化した単純な「アメリカ型動物的浪費社会」が世界中に拡大する中で、それとは明確に一線を画した消費文化が着実に育っている。インターネットによる新たな消費ネットワーク社会が確立する以前の80年、90年代にもそれが証明され、さらに2020年から始まった「ウイズ・コロナ」の新たな変革期の新たなデジタルネットワーク化社会の中でそれが再び立証されようとしているのだ。
■「アジアン・ニュー・ビートニクス世代」の到来〜人生はトランジットにすぎないのか〜
そしてこの「日本型スノビズム」は新たに日本を含めたアジアという地域を中心に、さらに進化した階層を生み出そうとしている。それは「日本型スノビズム」=「新・オタク文化」を愛でながら日本の様式美や形式美に憧れや親しみ、敬意を感じ、「アジアの歴史以降」を活き活きと満喫し、新たなポップカルチャーを創出しつづけているアジア各国の若者層や学生たちの新世代。それここそがまさに「アジアン・ニュー・ビートニクス世代」なのだ。
彼らは1950年代に彗星のようにアメリカで育ったポップカルチャー「ビートゼネレーション」を継承し、アジアという独自の文化圏でさらに新たなビート感覚を研ぎ澄まして成長している世代だ。
「1950年代の捨て子」「時代のはみ出し者」とも言われながら、第二次大戦後の物質文明大国アメリカの「動物的浪費文化」の暴走を予測しそれに抗うように50年代のポップカルチャーを生み出した「ビートニクス世代」。その彼らとは時代を超えて多くの共通軸で結ばれている。
ビートゼネレーションを代表する、「聖なる野蛮人」を目指したキンズバーグやケルアックなどは「人生はトランジットに過ぎない」と成熟への畏怖感を現しながらアメリカ大陸の意味のない単なる地図上の中心部を目指す、という悦楽的な旅に価値を見出した。彼らのカウンターカルチャーが持つ価値観は、まさにイデオロギー的な対立ではなく「今ある環境を否定しながら、調和せず形式的な対立を愛でる」という日本型スノビズムの行動様式と見事に共通しているのだ。そしてさらに彼らの行動様式の根底にあるのはアメリカが建国以来支配するキリスト教文化が持つ欺瞞的教条主義への抵抗だった。
ボブディラン、ジャニスジョプリン、デビットボウイなどもそこに自分の人生の転換点を見出したのだ。
キンズバーグがその詩篇の中で連呼した「モーラック」は社会を支配する悪霊をシンボリックに指している。「政府を支配し、ドルを支配し、裁判官を支配し、人々の頭蓋骨を割って脳みそとイマジネーションを喰っているモーラック」・・・・この悪霊「モーラック」とは旧約聖書に登場する異教徒の鬼神の事だ。人身供儀を強要し恐怖で世界を支配する。
自由の国・アメリカが「世界の平和と繁栄」を謳いながら、膨張する浪費社会、消費社会の渦に巻き込まれ、それを黙認する「アメリカの良心=キリスト教社会」の欺瞞と矛盾、そしてその危うさへの怒りをパラドクス的に詠ったのだ。そして、キンズバーグたちビートゼネレーションはこの欺瞞からの逃避として仏教や禅の修行に救いを求めて行った。
いまアジアで広がる「アジアン・ニュー・ビートニクス」世代もキンズバーグと同じように、捻じれたアジアの歴史に長く支配されてきた社会への欺瞞や矛盾、怒りを感じている。
第二次大戦後の好景気にも関わらずアメリカとソ連との冷戦時代に向かっていく危機感を感じていた「ビートニクス」。そして、同様に経済成長の恩恵を受けながらも膨張する中国とアメリカの米中対立や、香港など中国共産党の強権的アジア支配に強い危機感を感じている「アジアン・ニュー・ビートニクス」たち。
アジアには立憲君主制ながら軍事独裁政権が続くタイや中国共産党支配が進む香港、カンボジアなど、近年の急激な経済成長に比べ政治体制は欧米先進国と比べいまだ民主化には遅れを取っている国や地域が多い。長らく支配された王政や開発独裁政権下での強権が生む格差社会への抵抗感、賄賂や不正が蔓延る社会などへの怒りだ。しかし、それは、政治利用されてきた反日感情やかっての民主主義へのイデオロギー的な憧れや既存の政治体制へのイデオロギー的抵抗へとは繋がっていかない。
彼らはすでに欧米先進国へのコンプレックスや羨望感、歴史的反日感情などはほとんどといっていいほど持っていない。中間層の急成長で生まれた経済的余裕とネット社会の成長で国際社会との情報格差が解消した事も大きな理由だろう。そしてトランプ政権を機に一気に保守化し、表面化した人種問題や移民問題、内在する経済格差や矛盾で「アメリカ型民主主義」という虚像の崩壊を見せつけられたことも大きな要因だ。それは、アメリカを中心とした「グローバル社会」という幻想の終焉にもつながっている。
■加速するシニシズム(冷笑主義)〜本当はそれが嘘であるのを知っている。しかし、だからこそ彼らは信じるふりをやめられない〜
これらの幻想の崩壊で「アジアン・ニュービートニクス」世代たちがいま社会に対する怒りや叫びに変わって抵抗を示す新たな表現形態ともいえるのが、成熟消費社会の産物ともいえる「シニシズム(冷笑主義)」だ。
これは古代ギリシャ哲学にも由来する欲望から離れた生活の理想を追求する思想で、社会の風潮や政治状況、事象などから自分は距離を置き、既存のすべての価値観やモラルを無視したりその根拠をすべて疑ったりする。
彼らには、イデオロギーで対抗する「大きな物語」を求める気概は既にほとんど存在しない。軍事政権下のタイや共産党独裁政権下のベトナムや中国でも自国の政府の強権圧力や政治的欺瞞を十分感じつつも、自分たちの政府の悪政を冷笑しているのだ。同時にいまだキリスト教文化に支配されながら、国民が分断され、混迷する民主主義の幻影を追うアメリカにも冷笑しだした。反日を政治利用する韓国でも与党政府への無能ぶりを冷たい目線で笑っている。経済大国としながらも独裁政権で言論弾圧し、形骸化した思想なき共産党に支配された中国も同様に、厳しい監視の目を縫って冷たい笑いを投げかけている。
スロベニアの思想家ジジェクは「本当はそれが嘘であるのを知っている。しかし、だからこそ彼らは信じるふりをやめられない」とこのシニシズムの心理を的確に指摘している。
もちろん、アメリカや日本欧米など先進国も「シニシズム」の蔓延度はさらに高い。前述の「情報」という幻想の崩壊がシニシズムを加速化させているからだ。「四方八方の情報にアンテナを張る意識には、すべてが問題に見えてきて、すべてがどうでもよくなる」とドイツの社会学者スローターダイクは「情報のシニシズム」を皮肉っている。
言論の際限のない自由空間とイデオロギーや名誉欲を失った情報の膨張は「メディアの厨房は来る日も来る日も無数に多くの味付けで『現実』のごった煮を食卓に提供してくるが、なぜか毎日同じ味なのだ」と。もうはや味覚に興味を失った人々はいくら豪華な皿に乗った料理もただ、笑って見つめるだけだなのだ。
イデオロギーの喪失、経済的社会的不安、コミュニケーション能力の簡素化など、様々な要素も加わって近年、シニシズムは世代を超えて広がっている。冷めた目線で生きる彼らは、他人への関心が薄れ、感動が希薄化し、リスクを回避し、刹那的に今を生きる事しか関心がなくなってきているのだ。
この静かに社会の深奥で堆積しているシニシズムの流れを、コロナ・パンデミックはますます加速化させて行くに違いない。しかし、このシニシズムは社会のすべてを拒否し、沈没させ、朽ち果てていくだけの思想ではない。
このシニシズムの思潮は「日本型スノビズム」と深い相関関係にあり、「アジアン・ニュー・ビートニクス」という新たな潮流をさらに飛躍させるエネルギーの原動力となっていくからだ。
■「インフルエンサー」マーケティングと「新オタク文化」〜小さな物語のインフルエンスパワー〜
「今ある環境を否定しながら、調和せず形式的な対立を愛でる」という「日本型スノビズム」と「オタク文化」が相関関係にあるように、様々なネットワークがPCや携帯でソーシャルメディアとなってリアルタイムで繋がれ、「プリコラージュ」や「シュミラークル」文化の中で、世界の一人一人の手元で「小さな物語」の主人公を育てる「新オタク文化」と「シニシズム」も実は深い相関関係にあるのだ。
シニシズムが持つ排他的な日常が蔓延すればするほど、同時に「食べ飽きた料理には見向きもしないが、ちょっとした変わったキッチュな味付け、今までに無いロジックに基づいた料理法、今まで誰も気づかなかった健康へのメリット」などを発見すると、彼らは敏感に反応する。そしてそれが「ひとりの小さな物語」として生まれ発信された途端、SNSや各種動画サイトなどのネットワークで繋がり「ブリコラージュ」や「シュミラークル」文化という巨大デジタル土壌でまるで台風の目のように一気に培養されて行く。これがまさに今、巨大なマーケットに成長しつつある「インフルエンサー」マーケティングや、「Key Opinion Leader(KOL)」と呼ばれるビジネス手法のからくりだ。
これは消費マーケティング同様、ロシアのアメリカ大統領選挙への介入やかっての「アラブの春」など国際政治の舞台でも同様のソーシャルメディアを使った行動原理がすでに立証され実践されている。彼らはシニシズムの殻を破りそうな大胆な主張や言葉、想像もしないスタイルに敏感に反応するからだ。しかし、同時に「炎上」という「環境に調和しない対立軸」への快感も忘れない。そこにはイデオロギーという無駄な構造物は存在しないのだ。
1968年のコジェーヴの予想は見事にアニメやゲームの日本のオタク文化の世界進出として立証された。そしてさらにデジタル時代に突入しソーシャルメディアなどの新たなデジタル社会が産んだ「ブリコラージュ」「シュミラークル」文化で再び巨大な土壌を作りつつある、「新・オタク文化」がコロナ・パンデミックでの新しいライフスタイルの出現で一気に加速しはじめたのだ。
それは同時に、「日本型スノビズム」を愛でながら広く日本の様式美や形式美に憧れや親しみ、敬意を感じる「アジアン・ニュー・ビートニクス」という新たな世代も育てていく。彼らはまさに「アジアの歴史の終焉」に向かって走り出した新世代ともいえるからだ。
しかし、彼らは「クールジャパン」というような旧態然とした発想で日本アニメなどを「モノ」としてしか理解できない広告代理店が発信する言葉には耳を貸そうともしない。営利主義の企業に丸投げした政府のキャンペーンなどにはまさにその意図を簡単に見抜き「クールに笑って」無視するだけなのだ。
様々な幻想が消えうせ、「ウイズ・コロナ」として新たな生活スタイルが生まれるこの変革期こそ、この「アジアン・ニュー・ビートニクス」たちの渦を巻きこむ求心軸、「日本型スノビズム」が細部にわたって詰め込められたヒップな言葉とスタイルの、アジアの歴史を突き抜けた「小さな物語」を日本から創出していかなくてはならない。まさに、その絶好の機会ともいえるのだ。
「日本型スノビズム」が織りなす「小さな物語」のインフルエンス・パワーと「アジアン・ニュー・ビートニクス」たちの躍動。
それは、新たなカウンターカルチャーをアジアで創造するに違いない。
「ウイズ・コロナ」のいまこそが、「アジアの歴史の終焉」に向けた「新・コロナ時代」へ向けて走り出すのにふさわしい変革期なのだ。
*次回予告
②「アジアン・ニュー・ビートニクスとK・POPの躍動」
③「アジアン・ニュー・ビートニクスとアジアの歴史の終焉」