【間法物語】
日本語人が古来より持っている「魔法」がある。 それは「間法」。
「間」の中にあるチカラを扱えるようになった時、「未知なる世界」の扉が開かれ、「未知」は、いつしか「道」となって導かれていく。
「間法使いへの道」を歩き始める僕の物語。
【PROFILE】
イエオカズキ 「間」と「日本語」の世界を探求し続けるストーリーエディター。エッセンシャル出版社価値創造部員。
小説【間法物語】13 神話の真話
これまでの「間法物語」はこちら↓
間法物語14 最終回
EPILOGUEからの道
僕のバランスジェネレーターになる旅は終わった。
ひとつの旅が終わったということは、新しい旅が始まったということでもある。
おわりとはじまりは、ふたつでひとつのコトバである。
終わりというコトバは、もうひとつの側面に、必ず、始まりというコトバを含んで成立している。
それは、『間』が『魔』であったように。
『間』は『魔』であり、『魔』は『間』である。
『真』の存在が見えたとき、『間』と『魔』の双子のカタチも見えてきた。 タネおじさんが教えてくれたように、旅をすることで、世界は全く違って見えてくる。
僕は、これから、『間法』使いとして、バランスジェネレーターである旅に出る。
『ママ』の声は、常に、天使の声であり、悪魔の声である。
あるがままにあるとき、『間』と『魔』は常に循環し、人は皆、ママに孵る。
そうそう、この物語は、そもそも、世界のはじまりについての話だった。「世界のはじまり」とは、「世界のおわり」の話でもある。
ひとつの世界がおわるとき、同時に、ひとつの世界がはじまる。
人は、全員、母から生まれ、いつか、皆、ママに帰る。
僕たちは、母から生まれ、やがて、僕たちは、母に孵る。
それが、僕がずっと感じてきたこと。
とっておきのあなたに伝えるために、ちょっとまわり道して、遊んでみた。
人は、『間』を持って、人間となり、『間』と『魔』を使いこなして、『間法』使いへと進化する。
タネおじさんからもらった、生きるヒントも見つけることが出来た。
「生きる選択」と、「死ぬ恐怖」の双子の母親は、「自ら生きている」というコトバだ。
そのコトバが見つかれば、「自ずから生かされている」というコトバも、同時に誕生する。
だから、自ら生きている僕は、同時に、自ずから生かされている僕でもある。
そこには、死ぬことの恐怖を解くカギが、必ずあるはずだ。
ようやく、僕は、『間』と『魔』の差を取り除き、錆びついた鎖は取り外し、音を名前にして、「サトル」を選んだ。
親にもらって、握らされていた、「サトル」という名前を、一度手放し、もう一度選んだ。
自分が、自分に、同じ自分の名前を、名づける。
新たな自分を生んだ母親は、自分自身なのだ。
子供に名前をつけること。
コトバに名前をつけたときから、コトバは命を育みだす。
姓名と行動がともにあるときから、生命は鼓動する。
「やることやらなきゃ、子供は生まれない。 それが、基本的な姓名のプログラムになっているからな。」 タネおじさんが言っていたコトバを、僕は思い出していた。
サッチャンの声は、もう、聴こえない。
サッチャンは、結局、僕であり、僕が、サッチャンの正体だったのだから。
せっかく、視覚の死角に気づけたが、ちょっと油断すれば、すぐに、魔城のシステムは、作動し始める。
バランスジェネレーターである僕の前には、あらたなシステムの魔城がそびえたっている。
そして、城へと向かう途中には、あらたな、長い長い、未知という名の道が続いている。
コトバは、全てを一瞬にして、消すことが出来る。
コトバは、また、全てを一瞬にして、作り出すことも出来る。
一瞬にして、消え去るものは、一瞬にして、再び姿を現す。
僕は、毎瞬毎瞬、意志を持って、音を鳴らし、未来を決めていく。
そのとき、世界はスイッチひとつで、スイッチするのだ。
✳︎「間法物語」は、今回で最終回になります。ご愛読いただき、ありがとうございました!